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「もりあげる会」ヒストリー
「造形教育をもりあげる会」ヒストリー (思い あれこれ)
このような状況の中で、「造形教育をもりあげる会」は、これから必然的に新しく生まれ変わり、新たな造形教育のもりあげをめざし社会に提言していく会をめざして行くことになります。
その際に、これまでの「もりあげる会」が培ってきた会の力や魅力を引き継いでいくことが大事です。
これまでに、長年関わってきた方には、ご自身の数多くの出来事や経験の中から思いを綴っていただき、もりあげる会のこれまでの足跡や貴重な提言、楽しいエピソードなどをこれからにつなげていくために。
これからもりあげる会を支えていく人たちには、これからの会の方針や運営の方向性の指針となるように。
ここに表れた「もりあげる会」のヒストリーがきっと役に立つことと思います。
このページ、とても長いので、ブログから一つ一つのエピソードを選んでみることができます。
初めてのもりあげ参加 (小川あぐり)
昭和41年、第10回のもりあげ大会は藤沢市片瀬の向洋荘で行われました。当時の学年主任の先生のお誘いでした。新採用の頃です。
6月の梅雨時、蒸し暑い中、どこの部屋も人・人・人。四切画用紙に描かれた子どもたちの絵を畳の上に所狭しと並べ、作品や子どもについて熱く語る人を取り囲む人々。語る人、質問する人、感想を述べる人、あっちでもこっちでも広い向洋荘は、熱気に包まれ、大いに盛り上がっていました。一緒に言った先生はどこへやら。
確か一泊だったと思いますが、夕食時にはだれもかれも口角泡を飛ばして蘊蓄を傾け合っていました。参加者各自が作品を持ち寄って、まさにもりあげる会でありました。
この熱気にはまった私は、その後ずっともりあげる会に参加するようになったのです。 (小川あぐり)
小関先生との出会い (小川あぐり)
新採用の年、経緯はよく覚えていませんが、子どもの絵の指導にと声をかけていただき、平塚市内の小学校で土曜日の午後研究会をもつことになりました。そこに、小関先生がおられました。その時に、他の学校の先輩の先生方との交流もあり、そこでもりあげる会とのつながりが生まれたのです。
その会では、子どもの作品研究から自分たちの作品制作へと発展し、そこでの月1回の写生会から初めて継続的に制作を始めるようになりました。その会には「礫」という名前を付けていただき、私の制作の原点となり、今も続いています。
もりあげの研究会は月1回各地の小学校で会合が行われ、先生方の熱心な図工・美術のお話しを伺って、「デモシカ」先生だった私はそこで勉強させていただきました。
そこでの小関先生のことはあまりよく覚えていませんが、研究会の後、夕食会を兼ねた飲み会がまた楽しくて、月1の研究会が楽しみでした。 (小川あぐり)
小関先生の思い出Ⅰ (小川あぐり)
ある大会ですてきな小関先生の一面を拝見しました。
大会前半の提案発表の話し合い終了後は、当時は楽しい夕食が待っていました。夕食が一段落したころ、小関先生は立ち上がって近くにいた中山節子姉を招いて、二人で合唱を始めました。スワニー河という歌とよく知られている「夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫啼く・・♪」という別々の二つの歌を同時に歌われたのです。合唱だと高音、低音等で普通にハモるのですが、全く異なる歌を見事にハモられて、みんな思わず箸を止めて聞きほれてしまいました。
今でも鮮やかにそのシーンを思い出します。新しい発見でした (小川あぐり)
小関先生の思いでⅡ (小川あぐり)
(小川あぐり)
小関先生の思いでⅢ (小川あぐり)
小関先生の思いでⅣ (小川あぐり)
国大を退官された先生は、逗子のかぐのみ幼稚園に行かれました。そのため、もりあげの研究会も毎月かぐのみ幼稚園で行われました。そこにも、県下から毎回多くの先生方が集まり、研究会を重ねていました。
ある年の大会で、先生が咳き込まれているので、みんなが病院で診察を受けるようにと勧めました。大きな病院にはすぐには入れなくて、逗子の病院に入院されていました。ある時、私は一人でそこの病院にお見舞いに行きました。個室ではありませんでしたが、私は、先生の背中の方に廻って背中をさすりました。先生は「いいよ」とおっしゃったのですが、しばらく黙ってさすっていました。背骨が針のようにトゲトゲしく、手の平にささるようで大変驚きました。(これは、今まで誰にも言ったことがありません)思わず涙が出てきました。大切な先生。大好きな先生。今でもその感触が残っています。
<後日、お通夜で、先生の好きな岸洋子の「海よ教えて」を皆で歌ってもらい、私は指揮をさせてもらいました。>
(小川あぐり)
諸先輩の情熱に圧倒されて (佐々木孝)
私は、1966年新米教師として横浜市港北区の小さな小学校(全校11学級)に着任しました。
主任は、1つ先輩の横浜国大教育学部美術科卒業の新沼先生でした。その先生のお誘いがあって、造形教育をもりあげる会の存在をはじめて知ったのです。
私は、大学は異なるものの初等教育科で学び、卒論は木版画の研究とその制作でしたので、いつかは図画工作科の研究も進めてみたいとは思っていました。
しかし、大学時代に木版画を師事した河西万文教授は、「佐々木には、教育の教の字も教えなかったなあ。制作は当分止めて学校教育に専念しろよ。」ということで、大学を送り出してくださったのでした。上野の公募展を除いて、3年ほどその言いつけを守りました。
私は、学生時代から大田高耕士主宰の日本教育版画協会発行「はんが」を購読していました。また、教師になり、教え子たちの版画をコンクールに応募していました。(版画は、複数できるので、子どもや保護者にはしんぱいかけませんでした)
1968年、版画コンクールの審査員の依頼があり、八王子に出向きました。
その審査会に、後の造形教育をもりあげる会会長になられた荻原勉先生と出会ったのです。
昼食時、自己紹介をし合い雑談となりました。「造形教育をもりあげる会」のお誘いを受けましたが、体育や特別活動など小学校の教育そのものをまだまだ未熟だった私は、以前にも誘いがあった記憶だけ残し、参加は見合わせていました。
私は、1971年、希望がかない横浜市神奈川区に異動することになりました。移動先の学校は全校38学級で、しかも隔年ペースで全国発表するような研究校でした。何故か私は、図画工作科部員となり、数年後には、図画工作科の重点研究が始まりました。市や区内の研究会にも顔を出すようになったのです。なんと、そこに同じ神奈 区内の荻原勉先生がいらっしゃったのです。
会が終わると飲み会に誘われました。当時は、下戸でしたので、ほどほどの付き合いでした。しかし、参加してみると話芸多芸、教育談議に花が咲き、雑談の中に光るものをたくさん発見したものでした。
異動した翌年(1972年)、私は、第17回造形教育をもりあげる会(会場;冠峰楼、200余名参加)にて、分科会の責任者となっていたのです。
会長は、造形教育をもりあげる会を創設した小関利雄先生、事務局長は横浜国大附属中学校美術科教官の相場秀夫先生でした。 大会後の月例会には、相場先生の勤務校で行われ、私も毎月参加するようになりました。 (佐々木 孝)
《造形教育をもりあげる会》が私の育ちの広場 (山口喜雄)
造形教育をもりあげる会が私の育ちの広場です。広場はオープンで人々が集まり、出会いがあり、情報や意見の交換が行われ、その都市の発展の基礎となるエリアをさします。 教育学部4年時の教育実習指導教官の相場秀夫先生にすすめられて、1973年9月、1泊2日で横須賀市のホテル三浦ケープシャトーにて第17回研究大会(185名)に参加、研究はたのしいと実感しました。「幼稚園におけるかわいくてダイナミックな実践、小学校での細部まで行き届いた指導、中学校の思春期の特性を生かした指導作品など、どの研究発表にも新鮮さがあり引きつけられました。約200人の幅広い年齢層の先生方が真剣に研究協議をし、アトラクションを楽しむ姿を見て、ますます美術教師への憧憬がつのりましたし、テーマの〈現代っ子のイメージをどう育てるか〉はその後の私の指針にもなりました」と1986年の小著に記しました。のちの歴代会長の荻原勉・佐藤元巳・佐々木孝の各先生ほか諸先輩の輝きに強い憧れを感じ、学んだことを南区公民館にて学生数人で毎土曜運営の「造形教室」に反映させて教員採用試験に合格することができました。
1974年4月横浜市立洋光台第一中学校新任、授業実践研究の基礎をもりあげる会で学べたことが、具体的な授業展開の支えでした。1ヶ月後、救いを求めるように5月同会場の第18回研究大会(273名)に教科経営への切実な課題をもって参加。真摯な授業研究あり、たのしみながらの技術や材料用具と表現体験あり、歌い語る場ありの充実した1泊2日、授業実践研究への見通しを立てることができました。パソコンもインターネットも汎用される以前、美術教育書や美術教育ジャーナルしか研究の方法がなかった当時、造形教育をもりあげる会は公立中学校美術教育研究会・研修会以上にフレッシュなたのしい研究の広場でした。翌1975年5月第19回も同会場(267名)、多くの先輩と交流ができ、授業実践の学びも充実してきました。閉会間際に萩原先生から次期研究発表を依頼され、勇気を出して引き受けました。受動的から能動的へ、後半生へのターニングポイントでした。
(山口喜雄・のぶお)
提案そして事務局へ (佐々木 孝)
造形教育をもりあげる会の月例会(運営委員会・事務局会議)に初めて参加したのは、第16回造形教育研究大会(会場;「冠峰楼」)の前年1971年からでした。先に述べた荻原勉先生(元会長)からの誘いがあったからです。いきなり、16回大会で分科会の責任者となった(させられた?)ことが契機だったのかも分かりません。月例会には毎回のように参加し始めました。月例会の会場は、主に当時横浜の山手駅坂上にあった横浜国大附属中学校でした。事務局長と研究局長を兼務していた相場秀夫先生の勤務校だったこともあったのでしょう。当時の月例会は、研究の場であり、最後に事務連絡のような形で進行してように覚えています。
第17回(1973年)造形教育研究大会(会場;ケープシャトー/横須賀市)では、提案することになりました。分科会テーマ「体験と表現」だったので、「ザリガニを育ててザリガニを描くクラス」と「ザリガニを育てることなくザリガニを描くクラス」の表現の違いについて提案しました。調査は、短期間・2クラスの検証でしたので、まるで子どもの夏休みの宿題のようでした。当時、社会の大半の方が思う「よい絵」とは? リアルな絵を称賛していたような時代でした。しかし、もりあげる会の方々は、いろいろな角度から、柔軟に「絵のよさ」を追究していたように覚えています。この刺激は、その後のわたしの物の見方・考え方に大きくかかわることになりました。翌第18回大会にも同様のテーマで提案させて頂きました。
その後、勤務校で横浜市教委の指定を受けて図画工作科の研究発表を行うことになりました。造形教育をもりあげる会でお世話になっていた荻原先生(もりあげヒストリー①で紹介)と、横浜の東急ホテルで会い、「図画工作科の果たす役割ってなんですか?」と、ずばり訪ねました。数日後、箇条書きにして丁寧に応えてくださったことに今も感謝しています。それをベースに図画工作科の目標から評価を導き、必修題材・選択題材など設定し、題材間の構成を全学年の一覧にして授業研究発表をしました。
一方、勤務校の研究主任は、文部省(当時)の仕事もしていました。これから「『遊びと学び』の関係性が重要になるようだ。」と話しをしていた頃だったので、研究内容にとりあげて進めました。しかし、「遊び」を教育内容に組み入れ、一般化する方法が一番困難でした。しかも、「造形あそび」という言葉も分野もなかったので、「造形的なあそび」とカッコ付けで下学年に導入したのです。
やがて、1978年、偶然にも月例会に何度か足を運んだ横浜国大附属小学校(当時は、附属中学校と同じ校舎でした)に異動となったのです。荻原先生は事務局長・相場先生は研究局長の時でした。当然のように事務局や研究局の下働きとなったのです。
長年続いた「10の技術」にも、「くっつける」「つるす」「かかわる」などのコーナーを設け、造形活動の中のあそび心を誘発し、好奇心と発想豊かな学びの環境を提示するように心がけていきました。
そして、1980年から鎌倉附属小の細谷先生と研究局を1983年から2年間事務局長をし、異動に伴い、附属小学校の図画工作科担当教官(坂田正則・小島新樹先生)に託すこととなりました。
その2年後、管理職や教育委員会勤務となり、時々の月例会参加となってしまいました。 (佐々木 孝)
《造形教育をもりあげる会》4ヶ年連続発表による変容 (山口喜雄)
研究発表を引き受けても当初は見様見真似、それをどう発展させるかが課題でした。
1976年5月(以後すべて1泊2日で実施)東京よみうりランド、第20回(310名)提案名:団地っ子たちと『物語版画づくり』・中3。「美術の授業が作品第一主義となってはいけない。作品化は大切だが、その実践を通して、子どもたちのものの見方や感じ方、考え方を掘り下げ、豊かなものにしていくことが大切であると思う。これを機会に、美術の授業をどうすべきなのか、何をどう教えねばならないのかを実践の中で考えていきたい」と願望や自己確認を記述しました。この発表での実践例は山口喜雄共編『小学校図画工作科教育法』建帛社・2018年刊の26頁に掲載し、本文に詳述しています。
笑顔の佐々木孝先生に出会い会話しながら入場した1977年5月箱根町冠峰楼、第21回(330名)提案名:団地っ子たちとドライポイント版画『全力で走る人』の制作・中2。「一中祭のテーマが〈全力〉になり、例年盛り上がりに欠く体育祭、走ることが弱い生徒、運動部加入の減少傾向、体を動かすのを嫌うという現状をドライポイント版画の制作を通して〔①クロッキーの段階、②スケッチの段階、③下絵の段階、④彫りの段階、⑤刷りの段階〕何度も立ち止まり考えさせ、よりよい形象をつくり出す努力を要請した。と同時に主題を意識させ、運動感、流動感、密度をつくり出す線の粗密で美しく表現させた」と授業実践の設定意図を明示できるようになりました。
週2から1.5時間に授業時数が削減され、美術学習を中学生がもっとも軽視しやすい時期に、いかに主体的な学びを引き出すかが次の課題でした。1978年6月冠峰楼、第22回(340名)提案名:受験期の中3生徒がカを発揮できる授業と教材づくり〔美術学習プリント、美術研究新聞・レコードジャケット・クラスのマーク・青田石の印鑑・多色木版カレンダー〕・中3。「受験期の中学3年生に焦点をあて、週1.5時間の授業で、子どもたちが創造する意欲や表現力がより高まるような授業の進め方や、教材を、試行錯誤しながら研究したものである。地域の子どもの生活を見つめながら、授業や教材を研究し、独善的指導にならないように研究会などでそのあり方を考え、自分自身の持ち味を生かした授業や原材で安価な素材をもとにした教材を開発していきたい」と新たな教育課程に対応しました。授業展開や教材、子どもの生活をふまえた授業実践へと進展が伺え、技術や知的表現が要求される教材、比較的抵抗感のある素材でつくりあげた作品が使える教材など教材観も広がりました。この実践は造形教育をもりあげる会編『未来に生きる造形教育』1981年に小関利雄・真鍋一男・中村亨の3教授や荻原勉・佐藤元巳・佐々木孝の各先生など24名の共著として掲載され、私の初共著になりました。なお、大会期日・会場・参加者数は同書168~178頁「造形教育をもりあげる会のあゆみ」から引用しました。
美術学習指導の質的な飛躍を図るにはどうするか。1979年6月冠峰楼、第23回(344名)提案名:どのようにして積極的に自分をつくりかえていく子どもを育てるか〔夏休みの美術作品鑑賞ガイド、美術史・美術家研究からの意欲を〈郷土の民話・木版画共同制作〉共同制作に〕・中2。「芸術がその人の人生に大きな影響力をもつ中学時代に芸術作品の鑑賞により、教師と生徒だけでは望めない高い世界をつくり出し、創造する意欲や表現力にまで発展させたい。鑑賞で自分も感動し、高まり、指導に生かし、子どもと魂をふれ合いながら授業を進めたい」と学習指導の深化、と同時に授業者自身のあり方にも迫る授業実践へと変容していきました。これも、「育ちの広場」の諸先輩との交流のおかげです。 コロナ禍をマイナスととらえず、旧来の授業実践研究の飛躍的発展の契機と考え、造形教育をもりあげる会の新たな広場へと飛躍させられたらと切望しています。なお、本文括弧内の小著は、教育美術振興会編の雑誌『教育美術』1986年8月号26~39頁、実践報告:教育美術佐武賞「美術教師十年の軌跡」から引用しました。(山口喜雄、のぶお)
懇親会のエピソード<1> (佐々木孝)
造形教育をもりあげる会は、年間「造形教育研究大会」と「夏の宿泊研修会」を中心に、神奈川県下各地で月例研究会(研究会・運営事務局会議)がありました。
参加して初めの頃、小田原会場の時は、中学校の遠藤倫弘・輿水哲太郎両先生の声高々に論じ合う姿が印象に残っています。特に遠藤先生は、宴たけなわになると、ぴょんぴょん跳ねるように目の前にある物(割り箸やお椀の蓋など)を使って踊り出すのです。とにかく動きが半端でない。後で聞いた話ですが、横浜国大が参加した箱根駅伝の走者だったとのこと。
月例会の会場は、横浜市内をはじめ、川崎、藤沢、県内各幼稚園や小学校が主でした。月例会のその度にその地域の飲み屋に足を運んでいました。お酒を好む人もそうでない人も、用事があっても付き合いから始まって、次回からはまってしまう人もいました。それは、月例研究会の余韻が「造形談義」(ワーク・アウト)が気さくで愉快な研究会になったからでしょう。
特に、逗子市の「あゆみ幼稚園」(逗子市;小関会長が園長時代から)は、年に数回会場になりました。園の「かぐのみ祭り」(造形遊びを中心にした“子どもの造形活動のひろば”2日間開催)の日は、関東各地から保育を目指す学生や指導する先生方、保育士を引率して見える園長先生方、そして造形教育をもりあげる会の小・中・高・大学の先生方であふれんばかりになります。造形教育をもりあげる会の会長だった小関先生は、かぐのみ幼稚園に泊まり込み、幼児教育に関わっていましたので、その熱意と吸引力に引き込まれたのでしょう。その日の夕方、部屋をお借りして月例会を開催していました。幼稚園総出でお料理をつくって、私たちをもてなしてくださいました。とりわけ三田村哲子園長先生(その後石井稔江園長先生に引き継がれました。)の大皿に盛られた梅干し入りの鰯の煮付けなど、海の幸・山の幸、そして、手作り料理やお酒の持ち込みがあってして盛り上がりました。
宴がたけなわになるにつれ、造形教育の話題にも熱が入りました。
1984年頃のことです。月例会後の「造形談義」で、素材の話に及んだことがありました。小関会長は「ところで段ボールは、男かね?女かね?」(今では話題になりにくい世の中ですが)と言い出しました。「なかなか思うようにならない頑固なところは、男性でしょう。」「いやいや、しなやかで結構柔らかいから女性かも?」などと・・・。下世話な話で恐縮ですが「そりゃ!段(男)とボールで男ですよ。」と私が言ったら、小関会長から怒られた記憶があります。
小関会長の話題の矛先に誘われて、「段ボールという素材の可能性」を拓いて下さった気がしています。そして、知らず知らず「素材とは何か?造形教育とはなにか?」を学び合った気がします。もしかしたら小関会長は、“みんなと討論し合うことで見出すものだ”という考えがあって、始めから答えをもっていなかったかも分からないのです。
「もりあげる会」の“もりあげる”は、集う仲間の意志と情熱を求めていたのかも分かりません。 (佐々木 孝)
「もりあげ」は貴重な出会いの場 (坂生まゆみ)
「もりあげ」と聞くと、あの箱根のエネルギッシュな2日間とお世話になった人間味あふれる先生方のお顔が思い浮かび、なんとも熱くなつかしい思いで胸がいっぱいになる。
私を「もりあげ」に導いてくださったのは、中学の恩師、相場秀夫先生。今から46年前、私が大学1年生の時、「もりあげ」の大会の受付を頼まれたのがきっかけだった。(その後、在学中は毎年受付をやらせていただいた)
私の「もりあげ」の入り口が受付でよかった・・・。熱い思いが集って、活気に満ちていた大会。時には真剣に、時には和やかに寛いで・・・バラエティに富み充実した内容に皆大満足した大会。そんな素晴らしい大会を裏で一生懸命支えていらっしゃった先生方の真摯な姿を見ることができたから・・・。
普通の宿が、先生方のポップな手作り案内図やポスター、中山府二夫先生の作品等で、次々ににぎやかで楽しそうな「もりあげ色」に代わっていく。お祭り広場のように・・・。
印刷局では、提案発表後、各記録係から届いた手書きの原稿を次々と休みなく印刷する先生方の姿。翌日の午前中に行われた「10の技術」の様子までも印刷されたものを冊子にまとめ、帰路につくみなさんに渡していたのには驚いた。見事!
事務局では、あわただしく人が出入りし、いろいろ情報交換され、様々なことがてきぱきと決められ進んでいく。
裏方の仕事は忙しく、とても大変なのに、どの先生も笑顔で楽しそうに生き生きとしていらしたのが「すごい!!」と思ったものだ。
私も、受付が一段落すると「勉強していらっしゃい」と言っていただき、提案発表会に参加させていただいた。先生方が1年間頑張ってこられた熱意がそのまま子どもの作品に表れていて子どもの声が聞こえるようだった。「すごくいい!」いつか私も小学校の教師になれたらこんな風に熱い思いで子どもたちと向き合いたいと思った。
夜のお楽しみ会では、なんと、あの」小関利雄先生に似顔絵を描いていただいた。この色紙は、私の宝物である。
盛りだくさんのプログラムの合間に事務局へ行くのが楽しみだった。いつでも誰か知ら先生がいらして、忙しい中にも興味深い話をたくさん聞かせてくださった。現会長の佐々木孝先生との出会いもここで。人間味あふれるお人柄、引き込まれるようなお話が印象深かった。
たくさんの造形教育の感動と魅力あふれる「もりあげ」の先生方との出会い・・・。
このおみやげをいっぱいいただいた「もりあげ」は、私の人生の中でとても貴重なものになった。
(坂生まゆみ)
半端ないオーラが最初の出会い (宮川友二朗)
私が「造形教育をもりあげる会」造形教育研究大会に初めて参加したのは、
1986年(昭和61年)の確か第30回か31回大会だったと思います。
当時私は、川崎市の教員となって6年目でした。その年、川崎市図画工作科研究会の常任委員となりました。この当時の研究会では、常任委員の組織の中に、「造形教育をもりあげる会」という役割分担があり、新しく常任委員になったメンバーの中で比較的年の若いものがそこに配当されていたようです。
ということで、私の名前もその分担に入っていました。この役割分担に入ると、もりあげる会の造形教育研究大会に参加しなければいけないものと私は思いこんでいました。案内チラシが配られると、早速参加申し込みをしましたが、宿泊研修だということでちょっとびっくり、しかも、知らない人と相部屋になると聞いて、知らない人と練るのは嫌だなと思い日帰りで申し込みました。
このころは、まだ土曜日は午前中授業があったので、学校の勤務が終わってから、川崎から小田原、そして箱根湯本へと。箱根湯本からは湖尻桃源台方面のバスに揺られて小1時間、ようやく会場に到着したときは、3時を大きく回っていました。
とりあえず受付を済ませ、よく状況が呑み込めないまま、「10の技術」というのをやっているからと言われ、一つの部屋を覗いてみると、「フェルト版画」というものの体験を行っていました。初めて知った技法だったので、体験してみました。ところが、最近になって、もりあげる会のこれまでの歩みなどで見ると、10の技術でフェルト版画をやっていたのは、もっとずっと前のことらしいのです。でも、私の記憶では、確かに「フェルト版画」を体験し、用具セットまで購入して、その年の年賀状をつくったことを鮮明に覚えています。そのずれが不思議なのですが、
それはさておき、この会場である出会いがありました。それは、大学の一つ上の先輩である矢澤さんとの出会いでした。大学以来の出会いでした。懐かしく話をしていたのですが、その中で、「今は附属小学校にいて、附属にいるとこの会の事務局をやらなければいけないんだ」と言っていました。「へぇ~!大変ですね。」と他人事のように返していましたが、まさか、翌年に矢澤さんと同じ職場にいるとは。
こんな出会いもあった初めての「もりあげる会」でしたが、さらに印象に残っていることがあります。
それは、夕食時のことでした。私は日帰りで申し込んでいたので、夕食を食べたらさっさと帰ろうと思い、夕食会場の端の方で一人そそくさと食事をしていました。すると、何やら会場の雰囲気が突然変わったのです。何事かと思っていると、だれかが、会場に入ってきて、周りの人たちに何やら話しかけながら真ん中の通路をゆっくりと歩いていきます。誰だかよくわからなかったのですが、なにやらすごいオーラが。この人が、小関会長でした。
遅れてきたので、全体会に参加できず、小関会長の話も聞いてないので、この時が初めての出会いでしたが、「え~!何この人、よくわからないけれどなんかすごいオーラが!」と思ったのが今でも印象に残っています。
その後、小関会長が全体に挨拶をしていたのですが、その話は何も覚えていないけど、強烈な印象だけが残っています。
バス停までの暗闇を歩いて、ガラガラのバスに乗って帰路につきました。家に帰るまでの間、「なんだかよくわからないけれど、すごい会だな」とずっと思っていました。
(宮川友二朗)
私ともりあげの始めて物語 (武田晴信)
もりあげヒストリーを始めて書かれた宮川さんとほぼ同時期に私も「もりあげ」に関わりました。それを書きたいと思います。
私が初任者の頃、先輩の先生に「小学校の先生は多くの教科を指導するけど、自分の得意な教科を持つ事が大事だ」と言われました。私は色々な教科の研究会に顔を出していました。私が5年目の時に3年生を担任しました。このクラスに図工の嫌いな男子がいました。その子をなんとかして図工嫌いを直して上げたいと思いました。そこで私は藤沢市の小学校研究会で図工部に入りました。初めての研究会で役員を決める時に一緒に参加していた同じ学校の先輩の先生が私に藤沢市の小学校の造形展「あすにのびる子ども展」の役員に推薦されました。意味も分からず参加していると、3年目に教育課程研究会で藤沢市の代表で提案することになりました。
その提案内容は丁度その頃、私が勤務していた藤沢市立辻堂小学校の校舎改築がありました。古い木造校舎を取り壊して新しい校舎に改築することになりました。ただ校舎が壊れるのを見るのではなく、学年毎にテーマを設けて校舎とお別れしました。全校児童が校舎に自分の顔を描いたり、私のクラスは壊される校舎に鋸や金槌を持って自分の手で校舎の木を切り取ったりしました。その木を使って新しいものを作る活動を2年生の児童としました。それを教育課程研究会で提案しましたが、その時私の指導をしてくれた指導主事の先生が、「この提案をこれで終わらせるのではなく、造形教育をもりあげる会と言う研究会があるからそこでも提案して見ると良いです。そのほかに教育美術と言う雑誌があってそこでも研究レポートに提案すると良いです。」と指導を受けました。教育課程の発表は湘南三浦地区だけかと思っていたら、神奈川県の教育課程までありました。後で知ったのですが、この会にもりあげの方が多数参加していました。
翌年のもりあげが箱根であった時に再度、校舎改築の事を提案することになりました。幼稚園・保育園・小学校・中学校・大学・画塾等の方々が多数参加していました。土曜日の午前中の授業が終わってから電車とバスで箱根に行きました。若い人も多く熱気にあふれていました。提案や実技、飲み会や色々な方の話しも聞けとても参考になりました。
ここから私の図工ともりあげがつながりスタートしていきました。 (武田晴信)
月例会後のお楽しみ (宮川友二朗)
初めて「造形教育をもりあげる会」に参加した翌年。私は、附属横浜小学校に赴任しました。この附属小時代は、ほとんどもりあげる会の事務局状態でした。(1987 S62~1993 H5)
大会の回数でいくと、第31回大会から第37回大会のころです。
この7年間は、最初の2年は藤沢地区が事務局、次の2年間が川崎地区と、附属小は横浜なので事務局とは関わりないはずなのに、この当時は、附属小はもりあげる会の事務局を手伝うという不文律のようなものがあったようで、附属に行ったばかりの私は、当たり前のように事務局の手伝いをしていました。
このように書くと、いやいやながら仕方なく手伝わされていたようですが、現実はそんなことは全くなく、楽しかったことしか思い出しません。
このころの附属小は、文字通りの提灯学校で、夜遅くまで学校にいることがほとんどでした。そんな忙しい中に、もりあげる会の活動が入り、大会が近づけば結構時間を取られることが多かったのに、全く苦にならなかったのは今思うと不思議なことです。
振り返って楽しかったといえば、月例会や何やらで集まって話し合いが終わった後、必ず飲みに行っていたことです。事務局手伝いということで、年も若かった私は、飲み屋に行って飲む席の確保です。
なぜか、どこの場所で会議をしても、この後呑む店はここだと、必ずよく知っている人がいるのです。この当時まだ携帯電話などないので、早めにその店に行って、人数分の席を確保しておくことをよくやっていたのが懐かしいです。
この飲み会がまた楽しかったですね。とにかくメンバーが、今思うとすごい人たちばかりなんですね。
役職的にもすごいのですが、何しろ個性的な方たちばかりで、やっていることもおもしろく話題も豊富で、話を聞いているだけで楽しいしとても刺激的でした。
しかも、みなさんとても器の大きな方たちで、もりあげ新入りの若造をみんながうまくもりあげて楽しませてくれるんですね。そんなあたたかさもいっぱいの会でした。
もちろん、メインの月例会や大会に向けての話し合いなども初めてのことばかりで自分にとってとても役に立つことだったと思うのですが、あまり記憶にありません。最初のころの「もりあげる会」参加では、どいうわけか飲み会の方の印象が強く残っています。
なんか飲んだ話ばかりになってしまいましたが、このころのエピソードはまだまだ山ほどありますよ。 (宮川友二朗)
私の「もりあげ」始めて物語 2 (武田晴信)
私が「もりあげ」の研究大会に参加した頃は前回も書きましたが、箱根や湯河原で土曜日の午後から日曜日の午前中まで開かれていました。土曜日は授業が終わってから会場へ行き、夕方近くから提案がありました。その後、夕飯を取ってから飲み会やディスコなどがありました。日曜日の午前中は実技研修がありました。
初めての飲み会で私は萩原勉先生とお話をしました。「頑張って研究を進めてこういう場で発表をしていると教科書会社から教科書の出筆依頼が来るから授業でやったことをノートにまとめておいた方が良いですよ。」というようなことを言われたのを思い出しました。まさか私が教科書を書くなんてあり得ないと思っていました。
また私の教育課程の提案の指導主事の後藤楯比古先生は雑誌「教育美術」の研究レポートに応募することを進めてくれました。ですから私は自分で授業をしたことをノートにまとめて1年おきくらいに教育美術にレポートを提出していました。もちろん賞をもらうことはありませんでしたが、審査員のコメントに私の名前があがることもありました。
そして数年後には教科書会社から教科書の原稿の依頼が来るようになりました。当時の「もりあげ」の月例会は神奈川県内の各地の幼稚園・保育園・小学校・中学校・大学等で実践報告会がありました。私は藤沢という少し横浜や川崎と言う主流の場所から離れた所にいましたので、地域や校種による違いを実感されられました。私の視野が広がったことを覚えています。逗子のかぐのみ幼稚園に行ったり、もりあげの会員の皆さんが授業をすると聞くと横浜や川崎の小学校や図工の研究授業を見に行ったりしました。萩原さんの東京の小学校へも行ったりしました。また、もりあげの関係者だけではなく版画家の伊藤彌四夫さんの研究会にも参加したりしました。
こうして私は「もりあげ」と出会ってから造形の研究にのめり込んでいきました。「もりあげ」の良いところはただ単に技法を指導することではなく、造形教育を通していかに子どもの成長に関わるかを主においていることでした。それは今も変わりません。
私を育ててくれたのは「もりあげ」と言うことは間違いありません。しかし私が50歳前後で妻の闘病生活や病死と管理職になったりして「もりあげ」から一時離れていました。しかし、私は藤沢市の小学校の造形展「あすにのびる子ども展」ずっと関わったり、管理職でも藤沢市の図工研究の代表者になったりして神奈川県の大会や会合に参加すると「もりあげ」のメンバーに再会しました。宮川さんとは年齢も近くしばしば同席しました。
私は退職後、これまで育ててくれたもりあげに感謝の気持ちをこめて事務局を引き受けて今に至ります。コロナの影響でこの2年間大会は中止になりましたが、これまでのもりあげの流れを止めないようにお手伝いをしたいと思っています。 (武田晴信)
大会準備で前泊? (宮川友二朗)
附属小時代のこと。藤沢地区の事務局を手伝っていた時、大会の準備のために、金曜日の夜から泊って手伝ってほしいと頼まれました。土日と宿泊研修で大会を行っていた時ですから、金曜日に前泊すると、箱根に2泊することになります。勤務は、土曜日年休、金曜日は午後から年休を取って箱根に向かいました。
前泊の場所は、箱根高原ホテルではなく、小さなどこかの保養所のようなところでした。前泊してまで何を準備したのかというと、まずは、宿泊者の部屋割りです。直前まで申し込みを受け付けていたので、部屋割りは前日ぎりぎりに行っていたのです。申込者の名簿はできていましたから、それをもとに部屋割りをしていきます。このとき、だれが部屋割りの係だったか忘れましたが、「この人とこの人は知り合いだから」とか「地域が同じで年も近いから」とか「この人は何回も来ている人で」「この人は初めての参加だから」と、参加している人のことをよく知っていて、てきぱきと部屋割りをこなしているのに驚きました。
そして、もう一つの大きな仕事が細かい日程や、会場案内図、今できあがった部屋割り、名簿などを綴じこんで、大会当日の案内冊子を作成することでした。確かこの時は、なんと!「印刷機と紙折り機」も運んだ記憶があります。
さらに、当日の各種表示作成がありました。前年までに使用した表示もありましたが、そこは造形大好き人間の集まり、新たに楽しい表示に作り替えたりしていました。
こんなことを前泊した数名で分担して行っていたのを覚えています。夕方遅くに到着して、簡単に食事を済ませて、後は飲みながらワイワイと作業をしていたのかな・・・? 記憶が曖昧ですが。
翌朝、大会の受付開始は午後からなので、朝食後にすぐ準備に取り掛かります。
この準備の一番のメインは、中山府仁夫さん作成のディスプレイの設置でした。会場の箱根高原ホテルはバス停から、ホテル敷地内の道をずっと歩いてホテル入り口に到達します。受付となるホテル入り口までの長いアプローチにモニュメントというかオブジェというか、点々と飾っていくことにより参加者を迎えてくれるのです。これはこの辺にこの向きでとか、中山さんに指示をしてもらいながら取り付けていったのを思い出します。
他には、会場内の活動場所の設置とか表示など・・・受付開始まであわただしく動いていたような気がします。
でも、なぜでしょう? 前泊での準備に参加したのは1度か2度くらいだと思うのですが、しかも、このようにあわただしく動いてばかりいたのに、なぜか懐かしく思い出すんですよね。たぶんそこでの、いろいろ人たちとの関りがとても楽しかったからだと思います。
なぜだかよくわからない、だけどなんか楽しい。これも造形教育をもりあげる会の魅力だと思います。 (宮川友二朗)
不安だった「造形教育」に向かい合ったきっかけ (増田ツヤ子)
私の「造形教育をもりあげる会」との出会いは、念願の幼児教育の仕事を歩みだし様々な経験を積み重ねた頃でした。それまでの「絵画」や「工作」の評価は、見た目には上手で、本物にそっくりであること、説明した通りに描いたり制作したりすることが良いとされ、出来上がりが上手くいかない私にとっては小学校の頃から「図画工作」は大の苦手でした。教員免許証を頂いて造形教育指導に不安を持ちながらも子どもたちの前に立ち、幼児に見本を見せて描かせ・作らせるのが当たり前のこととされ私も同様にしていました。楽しくない「絵画」や「工作」をどうして子ども達にやらせるのか不満を持っていました。
日増しに こどもたちの大切な気持ちを全く無視していることに気づき、その不満は今後の造形教育に大きな不安となりました。平成11年頃だったと思います。園長会の席で向原幼稚園園長・前造形教育をもりあげる会会長の佐藤元己先生に造形教育の指導法について相談をしましたところ、即答えはありませんでしたが当時、小田原・湯河原等での一泊研修会のお誘いを頂きました。初心者で何も分からないのですが参加させて頂きました。
まずは、宿泊研修に200名を超す参加者の多さに驚きました。受付を済ませると関係業者のブースが並び書類や指導書・道具の数々、一つ一つを手にして業者に質問をする先生がいらしたりとても熱心でした。私は見たことのない会場内の雰囲気や教材等に感動しました。研修会は内容より、発表する先生方の気持ちを考えたり賛同したり、とても気持ちが理解できることが多かったです。その後の質問時間は提案して下さった先生方へのご意見や質問コーナーで、正直初めてのことで何も覚えていません。印象に残ったのは、とても優しい声で司会をして下さった流石先生のお姿! 今でも変わりません! そして長時間の研修会終了後のお酒の席・カラオケでのコミュニケーション! 一滴も飲めない私ですが、お酒は魔術師を導いてくれることも発見しました。提案発表の研修の場では聞けない先輩先生方の有難いお言葉の一言一言と意欲的な先生方のお姿に心を打たれました。その後の定例会にもちょくちょく参加させて頂きました。会の閉めは、大久保先生を囲んで一杯・・・そこでのお話も素敵でした。
不安だった造形教育は、こどもが主役で「みんな違ってみんなよい」ということが大事なことであると「造形教育をもりあげる会」で教えて頂き現在に至っております。 (増田ツヤ子)